中島ひな (Hina Nakashima)

 
★ 中島ひな (Hina Nakashima) プロフィール/略歴 ★

なぜか人に会うたび「xxを作った人」「xxに出ていた人」、といろいろな紹介のされかたをして説明が大変なのと、過去に携わったお仕事に関して、同じ話を既に500回くらい説明し続けているのでテンプレを置いておくことにしました。


--- 近況ステータス ---


生活に全力投球する普通の子持ちおばさん


--- 過去のお仕事 ---
 
 
【 芸能プロダクションに所属していた時代の仕事 】
 
 
2002年から数年間ダブルフォックスに所属。体調を崩して長期休んだのち契約更新せず辞めてしまった為、いつまでやっていたか記憶があやふやです...

★CM★

2002年 JR東日本 Suicaイオカード
2003年 アイカフェ
2004年 朝日生命 保険王
2005年 インテリジェンス OPPO

★ショートフィルム★

アマゾネスと僕
(松竹 C'sNext 女優賞ノミネート)

★テレビ★

2002年 テレビ東京 秋葉な連中
2003年 テレビ東京 秋葉★りむじん

★雑誌★

月刊CAPA,月刊デジキャパ(同別冊ムック等)
月刊フォトテクニック
 
 
【 ブロガーとしてのお仕事 】
 
 
★テレビ★

2008年 NHK 会社の星(デジタルの達人)

★連載★

2005年 オムロン カラダスキャンBLOG(※この頃は芸能事務所を通していました)

2008年 インテル ユルカンPC Life

★その他執筆など★

週刊アスキー、impressなどで単発コラム執筆

講談社Tokyo★1週間 エンタメオブザイヤー ブログ部門受賞
 
 
【 メイド喫茶の出店ディレクション 】
  
 
※このお仕事に関しては事実関係確認などの取材や質問がとても多いので少し長めに書いておきます。※
 
過去、3店舗ほどメイド喫茶の新規出店事業にかかわりました。

 
1.2002年 (名古屋/大須) M'sMelody

映像制作の部署で内定し在学中からADとして働き始めた企業にて、コスプレイヤーと言うことがバレてしまい、萩原暁氏の入社により上司に呼び出され「大須にメイド喫茶を作りたいからお前の力を貸してくれ」なぜか新規事業のリーダーに抜擢されるという漫画のような展開を経験。(結局その後ADに戻ることは無かった...)

主に企画立ち上げから開店までをディレクション。「おかえりなさいませご主人様」というメイド喫茶の挨拶発祥のお店になりメイド喫茶の歴史を語るに欠かせない存在に。

当時私は卒論執筆中で、大学ではベンチャー起業マーケティングそして物流&人材管理などを研究する「企業管理(経営)」のゼミに所属しており、私が研究の中で学んだ数少ない知識を振り絞り「高付加価値サービス」「CS(顧客満足)」のコンセプトをこのプロジェクトの最重要事項に設定しました。とりわけTDLのマーケティングを参考に"世界観"を追及した結果、あの「おかえりなさいませ」の挨拶が誕生したというのが経緯です。

以前から、何故そんな若手がそのような発言ができたのか?と私のやった仕事を謎に思われることが多いのですが、当時現場で最年少の学生であった私個人が「年上の全員」を説得するには信用不足や力不足はもちろん明らかで、重要な局面においては私個人の言葉では語らず研究用に私物で所有していた「価値創造の企業と商品開発」「企業管理 序説」この二冊の書籍を参考にして、会議中にマーカーで線を引いて見せて、具体的に「CSマーケティング」をわかるように説明していました。(社会的地位のある先生の研究は偉大です!)

主に「価値創造の企業と商品開発」からはソニーやP&Gなど多数企業の具体的事例から高付加価値商品、高付加価値サービス、顧客満足(CS)についての考察、「企業管理 序説」からは労働環境を作るにあたり、従業員自身がその仕事を通じて幸福感を得られると結果的に高いパフォーマンスが得られやすいこと、この方向性を学び活用させていただきました。

企業経営として守りたいポジションや既存の会社の運営ルールと、現場のメイドが描く夢物語は、当初まるで相反する存在でした。その間に立ち、両者を結びつけ説得するのが私のポジションであり最大の業務でした。そこで私の言葉では説得が難しい表現を「CSマーケティング」「サービスの高付加価値化」のキーワードで年配上司の理解や承認を獲得し、現場のメイドたちにはTDLと同じ「ビジネスでありながら顧客の幸福につながっているのかを考えること、そしてそれらを提供する従業員自身も幸福を得られる仕事であること」を徹底的に話し合いました。そのためプロジェクトの心臓部ですべての意見を見極め「どの案を通し、誰を説得すべきであるか」を取捨選択しゲートキーパーとして働くのが私の役目でした。そのため本部サイドの人間としていくつもの素敵なアイデアや要望を却下せざるを得ない立場で、私は現場で悪者になりがちでしたし、最終的にあまり良く思っていなかったり大きく対立したメイドも居ました。

そのため、当初、裏手の私は徹底的に存在をひそめ自分が大切にしてきた「CSマーケティング」を貫くためお客様から見えるメイドを前面に出し、リーダー格のカリスマ性を高めてファンを獲得することに注力しました。その結果、表舞台は大成功し現場はカリスマリーダーが作り上げたものでありリーダーの存在が絶対であるという空気が出来上がってしまい「中島は店で実務を何もやっていなかった」という批判を目にするなど、相当悲しかったですが、それは自分にとってのバネにもなりました。実際、二人のカリスマ店員が神輿に乗って大車輪の働きをしたので今でも感謝するほかありません。そして嫉妬や私怨の炎が上がりやすい二人の火を小さくするために、現場では好かれていないと知りながらも「いろんな評価があるけれど、あの二人は仕事として本当に頑張っているので、そこは本当に認めてあげてほしい」と、コスプレイベントへ足を運ぶたび友人知人カメコの皆さま一人でも多くに言って回っていたこと、本人たちは私を怨むばかりで知らないことでしょう(笑)実際いろいろやりましたがこのオフライン行動がネットの評価を覆すのに最も効果があったように思います。

そして肝心の挨拶についてですが、実際にその挨拶のアイデアを発案したのは私ではなく現場のメイド(リーダー)なので実際私のアイデアではありません。それは彼女たちの功績です。間違って「あの挨拶を考えた人」と言われた時は、全力で否定するようにしています。先述したとおり、TDLのような「世界観とCS」を大切にしようと説いてきた結果、スタッフからそのアイデアを引き出すことができた、私がやっていた仕事はそこです。本当に真剣に取り組んでいました。

また、「大須にメイド喫茶を作ろう」と言い出した当初、社内では同時に「大須の街おこしのために、世界コスプレサミットという世界で一番大きなコスプレイベントを開こう」という当時社長(月城)の大風呂敷な構想が並行して展開されていました。しかし目下ひたすらメイド喫茶開店が優先課題でしたので当時はどうせ妄想で終わると寝言レベルに思っていましたが、私が退職した後にまさかのコスプレサミットも実現しました。第一回は今のように盛大ではなくささやかな物でしたが。いまでも「辞めなければ第一回日本代表で出られた可能性が...?!(笑)」と少しだけ後悔しています(笑) 
(※コスプレサミットの発祥ルーツを探して検索してきた人向けの情報。)

それから、「学生」と「大須の事業」と「東京での芸能活動」3足のわらじをはけた謎もよく不審に思われるのですが、2001年まで私はとても真面目な学生でしたので、当時4年生の履修内容は卒研ゼミのみで、それ以外の単位は3年生の後期ですべての卒業単位を取り終わっていました。そのため4年生だった2002年の私は、大学にはほぼ行かなくて良い状態だったので、授業が無い分の時間を利用し内定企業で働き始めていたのです。

2012年にM'smelodyの10周年イベントがありましたが、そのとき丁度つわりがピークで外出できず、涙をのんで欠席させていただきました。決して不仲で出席しなかったわけではありませんのでご安心ください(笑)

2.2003年 (名古屋/大須) 大須の巫女茶屋 

すでに内容がほとんど決まった状態で、主に出店業務のディレクションを担当。抜群の立地とコンセプトが先立ちコストが見合わず惜しまれつつも無念の閉店。その後店舗移転&コンセプト変更でCOMOKとなりました(COMOKには1ミリも関わっていませんが長く続くお店になっていてとても嬉しく影から見守っております!)

3.2004年 (東京/秋葉原) @ほぉ~むcafe

当初、秋葉原やオタク産業に全く知識がないという企業からアドバイザーとして依頼を受け、出店前のコンセプトや運営について開店初期までディレクション。(依頼は、共通の友人を通じた紹介。)

すでに全国的にメイド喫茶が乱立し閉店も複数出ていた時期での依頼。大須M'sMelodyのノウハウを生かし、今回は秋葉原に今まで無い「オタク向けではない一般客が入れる観光地としてのメイドカフェ」という会社側の依頼をもとに企画立ち上げからディレクション。立地の良さから開店後一カ月ほど取材が殺到したためタレント業のノウハウを生かしメディア対応に関して全力サポート。当初経営者サイドにはメディア対応に関する知識やノウハウが無かったため、受けるべき取材、受けるべきでない(お断りする)取材、事前に掲載内容をしっかり確認するなどかなり徹底して取り組み、引き継ぎました。(メディア対応に関しては、私が最も細心の注意を払った事項と言っても過言ではありません)

その甲斐あって、離職後もメディア露出の強いお店になり、その後「萌え萌え系」コンセプト変更で超人気店に成長し、私が居た頃とは桁違いのマンモス店になってしまったので今となっては「やりました」としゃしゃり出るのもおこがましいぐらいの存在に...

そして、そのメディアでお見受けする「オタク知識のない経営者が、チアリーディングで得た経験を生かした」とされるお話は、私がいなくなったのち、萌え萌え系に路線変更してからのご活躍の話かなと思います。お恥ずかしい話、私の在職中は「守るべきライン」を高く設定してあまり売り上げが良くなかったので、あのように事業を大きくする力は私にはありませんでした。そこは、オタクではない外部の人間が開き直って突き進んだ結果の成功で「お見事」と言わざるを得ません。

メイド喫茶に関係する取材や世間話の中で、私がどの程度関与していたのかという事をよく聞かれますが、出店当初は、経験者である私や他店に勤務経験のあるメイド達で知識やノウハウをフル共有し、知識ゼロの経営者側を全員で全力サポートして開店にこぎつけたような形でした。(経営者サイドは業者とのお取引や勤怠管理という本来からある業務に専念してもらう形)

先述した通り、すでにメイド喫茶が乱立状態であり、求人をかけて集まった約半数は他店の経験者で、伝説になった「Cos-chaのスクール水着営業」を経験したという元メイドや、閉店店舗で給与未払い被害を受けた元メイドが新しい職場をもとめて複数名応募してくるという時代でした。そのため黎明期の未経験で手探りな状態とは違い、メイド喫茶のブームが安定し「他店での経験者が集まってノウハウを共有し、新店を運営できる」という第三のシーズンに入っていたと思います。

その中で私の立場とてして、かつて大須のM'sMelodyを出店する際に最重要事項として力説し続けた"「CSマーケティング」「サービスの高付加価値化」のキーワードで年配上司の理解や承認を獲得し、現場のメイドたちにはTDLと同じ「ビジネスでありながら顧客の幸福につながっているのかを考えること、そしてそれらを提供する従業員自身も幸福を得られる仕事であること」を徹底的に話し合い"このキーワードに関しては、@ほぉ~むcafeでも全く同じことで、繰り返し、繰り返し、しつこく言い続けてスタッフ達のアイデア出しや行動の中で意識してもらい、反映されていったと思います。

そこから運営オペレーションやノウハウが未経験であった本部側に一つずつ引き継がれ、そしてそれらが「非オタク」ならではの視点でブラッシュアップされ、それらがヒットして事業を大きくされたのが今の形態、ということになります。

当初、そのどちらが欠けても今の姿はないわけでして、誰が作ったのかと言うと「みんなで順番に力を出し合った形」なのではないかと思っている次第です。そしてそこから事業を急拡大し更に10年以上も業界のトップランナーで居続けているのは本当に凄いことだと感心するばかりですし、私なんてものは遠く離れたメディア越しに感心するばかりの「そんな人、いたっけ?」な空気ポジションで居る程度のものです。

もしかしたら、人によっては見え方も語り口も変わってきて、お互いの思い違いで「事実と異なる!」という意見が出るかもしれませんが、当時、私は私なりに在職中は寿命をすり減らし私財も投入し真剣にやっていたので私の中では嘘は無いです。きちんとできていなかったこと、失敗してしまったこと、迷惑をかけてしまったことも多数あります。そこを羅列されたらだいぶつらい...しかしそこは全員同じで失敗して迷惑をかけあい全員が全員お互い様の状況でした。できるもの、できないもの、二人三脚やっていたという思い出にしておきたいです。

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